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「サクラ咲ク」夜光花

あらすじ
 高校生のころ三ヶ月間行方不明になり、その間の記憶をなくしたままの怜士。以来、写真を撮られたり人に触れられたりするのが苦手になってしまった怜士は、未だ誰ともセックスすることが出来ずにいる。そんなある日、中学時代に憧れ、想いを寄せていた花吹雪先輩――櫻木と再会する。櫻木がおいかけていた事件をきっかけに、二人は同居することになるが…。

本文より抜粋

「怜士、それ以上飲まないほうがいいよ。まぁ、酔ったらこのまま泊まっていってもいいけど」
 怜士の酒を煽る速度が異常に速いのに気づき、櫻木がやんわりとたしなめてきた。泊まっていってもいい、と言われ、悶々とその件について悩んでいた怜士は、ハッとして顔を上げた。まだ四杯目で、酔うほど飲んではいないはずだが、急にくらりとした。思わず額を手で覆うと、櫻木がナイフとフォークを置き、心配そうに覗き込む。メインの魚料理に怜士はほとんど手をつけていない。
「大丈夫? 水をもらおうか」
 櫻木が店員を呼ぼうとしたので、つい怜士は必死な形相で「先輩」とそれを止めた。ずっと押し黙っていた怜士がやっと口を開いたので、櫻木が振り返って動きを止めた。「先輩……、さっき言ってた大輝の件……、受けてもいいです」
 櫻木の顔を見て話す自信がなかったので、怜士はうつむき、絞り出すように言葉を発した。櫻木が目を見開き、身を乗り出してくる。
「本当? 嫌だったらやめていいんだよ。ずっとそれを考えてたから、怖い顔してたの?」
 櫻木の声が少し興奮している。顔を見なくても目を輝かせているのが分かるし、案じるように自分を見つめているのが感じられる。
 怜士は決意が鈍る前にと、膝に乗せたナプキンをぎゅっと掴んだ。
「そのかわり───一晩でいいから、抱いてくれませんか」
 一気にそこまで言うと、怜士は目を硬くつぶり、大きく息を震わせた。とうとう言ってしまった。心臓が口から飛び出しそうなほど激しく波打っている。ぴりっと空気が凍りついた気がして、とても顔を上げられない。受験の合否を知る時だって、こんなに緊張しなかった。手が冷たくなっているし、変な汗もかいている。櫻木に冷たく拒絶されるのだけは嫌だ。
 しばらく部屋に沈黙が訪れた。櫻木が戸惑ったように自分を凝視しているのが、痛いほど肌に感じられる。櫻木にとっては青天の霹靂みたいなものなのだろう。この人は自分が告白はしても、こういう申し出をするなんて微塵も考えていない人だ。
 案の定、沈黙の後に発した櫻木の言葉は、怜士をどん底に突き落とすものだった。
「なんで?」
 困惑しているのがありありと分かる声で聞かれ、怜士はうっかり目に涙を溜めた。櫻木にとっては自分と抱き合うことは、それくらい可能性としてないのだ。ここで引き下がるべきなのだろうが、言われた言葉に頭の中がぐちゃぐちゃになって、まともな思考ができなくなった。
「……お、俺は…、したくないことを……するんだ。だから……先輩だって、したくないことをしてくれてもいいじゃないですか……」
 無性に自分が情けなくなって、ぼろりと涙がこぼれ出た。みじめだ。こんな言葉、言いたくないのに。なんで言ってしまったのだろう。四杯も飲んだのに、酔いもすっかり冷めた。櫻木の目には今自分がどんなふうに映っているのだろう。気持ち悪い奴と思われたに違いない。ただの後輩だと思って親切にしていたのに、身体の関係を要求したのだから当たり前だ。
 ひょっとしたら長い間好きだった人に手が届くかもしれないと思うと、とても素通りできなかった。チャンスがあるなら、試してみたかった。そういう気持ちを、きっと櫻木は理解できないだろう。酔って変な発言をしたと謝るべきだ。櫻木が悪いわけではない。同性で抱き合うのに抵抗があるのは当然だ。
「ごめん、そういう意味じゃないよ。なんでっていうのは、怜士は触れられるの嫌なんだろう? それなのに、俺としたいの?」
 怜士が泣いているのに気づいたのか、櫻木がやや慌てたように言葉を続けた。罵倒されるのかと身構えたところだったので、櫻木がいつもの調子で優しく接してくれて力が抜けた。ナプキンで涙を拭って、おそるおそる顔を上げると、櫻木は不思議そうな顔で自分を見ていた。その目の中には軽蔑や嫌悪は見当たらなかった。なんだかそれを知ったらまた涙腺が弛んで、泣き出してしまった。
「す……すみません、でも俺は……先輩が好きなんです……。先輩で駄目なら、もう一生しなくていいやと思って…」
 かすれた声でぼそぼそと告げると、櫻木が驚いたように息を呑んだ。頬にまた涙がこぼれてきて、急いでナプキンで顔を隠した。
「すみません……みっともなくて……」
 背中を丸めて謝ると、にじみ出てくる涙を押さえた。咽がひりひりして、胸が苦しい。可愛い女性が泣くなら庇護欲も湧くだろうが、こんな歳の男が泣いてもみっともないだけだ。やっぱりもうこのまま自宅に戻ろう。今夜は思い切り泣いて、さっさと寝てしまえばいい。
「そうか……」
 櫻木はすっかり食事の手を止めて、じっと怜士を見つめている。ようやく涙が止まり、震える肺に無理やり酸素を送り込む。数回深呼吸して、顔を上げると、意外なほど優しげな顔をした櫻木が自分を見ていた。
「うん、いいよ。しよう」
 続けてその唇から快活な声が漏れて、怜士は一瞬頭が真っ白になって、ぽかんと口を開けてしまった。
 今のは聞き間違いではないのだろうか。いいよと言った気がする。空耳? それとも同情して許してくれたのか。どちらでもいい、櫻木が自分を拒絶しなかった───。
「いつしたいの? 大輝に会うのを先にする?」
「今夜───じゃ、駄目ですか」
 櫻木に聞かれ、気づいたらすごいことを口走っていた。大輝に会った後では、過去の知りたくない事実を知って、余計に櫻木と抱き合えなくなるかもしれない。抱いてくれるなら、櫻木の気が変わらない今夜のうちがいい。