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「夏の雪」葵居ゆゆ(ill:雨澄ノカ)

あらすじ
 事故で弟が亡くなって以来、壊れていく家族のなかで居場所をなくした冬は、ある日衝動的に家を飛び出してしまう。行くあてのない冬を拾ったのは、偶然出会った喜雨という男だった。優しさに慣れていない冬は、喜雨の行動に戸惑うが、次第にありのままを受け入れてくれる喜雨に少しずつ心を開いていく。やがて、喜雨に何気なく触れられるたびに、嬉しさと切なさを感じはじめた冬は、生まれて初めて人を好きになる感情を知り――。

本文より抜粋

 喜雨はおどけたように笑ってみせて、無理しなくていいのに、と冬は思った。疲れたと言ってくれたら、慰めることだってできるのに……喜雨にとって冬は子どもだから、愚痴を言ったり弱味を見せたりする相手ではないのだろう。
 あと三日。三日でさよならするのに、冬は喜雨のためになにもできていない。
 してもらうばっかりなんて嫌だ、と思いながら、冬は両手の拳を丸めて胸の前に揃えた。
「わんわん」
「──なんだ?」
 急に犬の真似をした冬を見下ろして、喜雨は面食らった顔をした。冬はもう一度「わん」と言って、丸めた右手で喜雨の胸をかるく叩く。
「だって、喜雨は犬が好きなんでしょ。……気持ちが和むかと思って」
「……それで、犬の真似?」
「そう」
 ほうけたみたいな喜雨の声に、馬鹿なことをした、と後悔して冬はそっぽを向いた。
「──冗談だよ」
 早足で先に行こうとすると、後ろからぎゅっと手を掴まれた。びりっと電流が走った気がして、冬は振り返って喜雨を仰ぐ。喜雨は困ったように空いた手で自分の頬を撫で、それから言いづらそうに口をひらいた。
「その、なんだ。可愛かった」
「──お世辞はいいよ」
「お世辞じゃないさ。犬はいいな──そのうち、拾うよ、きっと」
「飼うの?」
「飼えたらいいなと思ってる。いろいろ片付いたらな」
 喜雨はそう言って冬と手をつなぎ直した。冬の指の隙間に長い指が差し込まれ、てのひらをぴったりあわせて、喜雨は冬を傍に引き寄せる。
「冬も気に入る犬にしないとな」
「……」
 ありがとう、と言うことも、あと三日だと切り出すこともできずに冬はそっと息を吐き出した。心臓がすごくどきどきしている。手をつないだ、と思うだけでたまらなく嬉しい。
 こっそりと見上げた喜雨の横顔は静かで、なにか考え込んでいるようにも見えた。笑わない喜雨は精悍に見える分よそよそしくて、こっちを向いてほしいなと冬は思う。喜雨の言う「いろいろ」や疲れている理由を説明してくれなくてもいいから、少しだけこっちを見てほしい。
 犬なんか飼わないで、代わりに、こっちを見てくれたらいいのに。
 犬なんか嫌い、と口走りそうになって、冬は寸前で飲み込んだ。それを喜雨が他愛ないわがままだと思ってくれたとしても、冬には言う権利がない。だって、あと三日。たったあと三日で、冬は長屋を出ていかなければならない。
 家に帰る、と言ったら喜雨はどんな顔をするのだろうと冬は想像してみた。少しは寂しそうにしてくれるだろうか。否、きっとあっさり、明るく優しく笑って、「よかったな」と言うだろう。しんどくなったら遊びに来ていいから、とか優しいことを言って、でも喜雨が冬を恋しがったりはしないだろう。
 わかってるよ、と冬は胸の中で呟いた。喜雨にとって冬は、気まぐれで拾っただけの相手で、それ以上にはなり得ないのだ。一緒に眠ってくれたことも、泣いた冬をずっと抱きしめてくれたことも、ただの厚意でしかない。
 自分に言い聞かせるようにそう考えながら、冬は本当の気持ちに気づいて唇を噛んだ。
(──どうしよう)
 てのひらから伝わる熱にゆらゆらしてしまう、この気持ち。
 触れられると痺れるみたいに熱くなって、そわそわして、そのくせもう一度触られたいと思ってしまう、この気持ち。
 手のかかる拾った子どもというだけでもいい。それでもいいから、自分のことを見てほしい。そう願うだけできりきりと心臓が痛む。甘い針で撃たれるような、深い痛み。
 ──喜雨のことが、好きだ。