ちょこよみリンクス

「マルタイ ―SPの恋人―」妃川蛍(ill:亜樹良のりかず)

あらすじ
来日した某国首相の息子・アナスタシアの警護を命じられた警視庁SPの室塚。我が儘セレブに慣れていない室塚は、アナスタシアの奔放っぷりに唖然とする。しかも、彼の要望から二十四時間体制で警護にあたることに。買い物や観光に振り回されてぐったりする反面、室塚は存外それを楽しんでいることに気付く。そして、アナスタシアの内に抱えた寂しさや無邪気な素顔に徐々に惹かれていく。そんな中、アナスタシアが何者かに拉致されしまい…!?

本文より抜粋

 私服に着替えてきますと席を立とうとすると、アナスタシアも同時に腰を上げる。そして、先だって歩きはじめた。
「Signor Duran?」
 どちらへ? と呼びとめる。
「アナでいいって言ったろ? 友だちにSignorなんてつけるかい?」
 呆れた風に肩を竦める仕種も芝居じみている。
「警護の準備があります。まだお部屋から出ていただくわけにはまいりません」
 前に回り込んでアナスタシアの行く先を塞ぐ。
 その室塚に躊躇なく歩み寄ってきたかと思ったら、またもスルリと懐に滑り込んでくる。ほぼ同じ高さにある緑眼の美しさに見惚れた、一瞬の隙を突かれた。
「……っ」
 この前は、頬だった。だが今度は、唇で甘ったるい音がした。
 さすがに驚いて、目を瞠ってしまう。あきらかにあいさつではない行為に、部下のSPたちも絶句した。
 視界いっぱいに、美しい相貌。端整な口許が、愉快げな笑みを刻む。白い手が、室塚の肩をぽんっと撫でて、そして脇をすり抜けて行った。
 この掴みどころのなさは、いったいなんだろうか。なにより、こちらの動きを読んでいるとしか思えない身のこなし、感覚の良さ。護られ慣れているがゆえのものなのか。
 そんなことを考えていたら、「班長!」と、腕を揺すられた。視線を落とせば、一歩後ろに控えていたはずの州嘉が、すぐ横で不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。
「中学生じゃないんですから、あれくらいで固まらないでください」
 潜めた声でそんな苦言を寄こして、くるりと背を向ける。そして、大股にアナスタシアを追って行った。
「……すまん」
 そういうわけではなかったのだが…と、気圧されがちに返して、自分もあとを追う。
 アナスタシアが運転手に告げた行き先は、日本で懇意にしているセレクトショップ。事前の資料にあった店だが、スケジュールにはない。
 いたしかたない。公式訪問ならともかく、お忍び旅行なのだ。予定どおりを強要するのも息苦しいだろう。
 銀座の奥まった場所にあるその店は、知る人ぞ知るたたずまいで、アナスタシアの宿泊ホテル同様に、こんな仕事でもしていない限りは一生足を踏み入れることもないだろう高級店だった。
 先着したアドバンス部隊が、店長に話を通し、店内の安全を確保した旨、無線に報告を寄こす。
 それを受けて車を降り、周囲の安全を確認して、後部シートのドアを開けた。
 黒塗りの高級車からものものしく人が降り立てば、それだけで何事かと注目を集めるのは当然。
 そうして「有名人かしら?」「政治家?」程度の興味本位で足を止めた通行人のなかに、驚きと歓喜が波紋のように広がりはじめたところで、店のドアが下界の喧噪を遮った。重厚さのある、ガラスのドアだ。
 店長とおぼしき妙齢の女性が、「いらっしゃいませ」と優雅に腰を折る。「こちらへ」と、奥のVIPルームに通そうとする店長を制して、アナスタシアは店内の物色をはじめた。
 店内を一周したあと、「これとそれ、あとそれも」などと、本当に見ているのかと問いたくなるスピードで洋服を選んでいく。
 だが、店員が取り上げる品はどれも、アナスタシアのイメージではないように見えた。なんでも着こなすだろうが、彼ならもっと華やかなものが似合いだ。
 そんなことを思いながら、一歩引いた場所で、それでも何かあれば即アナスタシアの安全を確保できる距離で、彼の買い物風景を眺めていた室塚だったが、「シュースケ」と呼ばれて、アナスタシアの傍らに立った。
「なにか?」
 よもや着替えを手伝えとは言われまいが……。
 VIPのなかには、ドレスの背中をさらしてファスナーを上げろなどと、映画のワンシーンのようなことを言うご婦人も、実際にいる。
 四角四面な態度の室塚に向けられる、ニッコリと、美しすぎる笑み。
 いやな予感にとらわれる室塚に、自分が選んだシャツをあてて、「ああ、やっぱり」と頷く。
「これくらい明るい色のほうが似合う」
 そう言うアナスタシアの手には、鮮やかなブルーのシャツがあった。
「……」