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「月神の愛でる花」朝霞月子(ill:千川夏味)

あらすじ
 見知らぬ異世界へトリップしてしまった純情な高校生の佐保は、若き皇帝レグレシティスの治めるサークィン皇国の裁縫店でつつましくも懸命に働いていた。あるとき、城におつかいに行った佐保は、暴漢に襲われ意識を失ってしまう。目覚めた佐保は、暴漢であったサラエ国の護衛官たちに、行方不明になった皇帝の嫁候補である「姫」の代わりをしてほしいと懇願される。押し切られた佐保は、皇帝の後宮で「姫」として暮らすことになるが…。

本文より抜粋

「お医者様を呼ぶほど大袈裟なものじゃないですよ?」
「怪我を甘く見るな。前にも言ったが、小さな棘にも毒があるものはある。毒がなくとも取り出すのが遅くなれば傷口が倦んでそこから熱が出ることもある」
「そっか……。利き手じゃなかったら取れたのに」
 佐保の利き腕は右手だ。左手では、指に刺さったような小さな棘を抜くことは難しい。
 耐えられないほどの痛さではない。だが、皇帝が言うように毒でも持っているかのように、ずきんずきんという音が聴こえる気がして来た。
 佐保の黒い瞳は、レグレシティスに救いを求めていた。
 逡巡は一瞬のこと。皇帝は椅子に座る佐保の足元に膝をつくと手袋を脱ぎ去り、そっと佐保の手を持ち上げた。
「少し痛むぞ」
「我慢します」
 皇帝は佐保の指の腹を爪の先でぐいと押した。
「……っ」
「痛いだろうがもう少しだ。もう少しで先端を掴める」
 佐保はぎゅっと膝の上の着物を握り締めた。
 つきんつきんと走る痛さ。それがしばらく続いた後、ふっと和らぐと同時に、指先に掛けられた息。
 レグレシティスは、取り出した棘を目の前に翳した。手間取ったのは、意外と太さがあったことと先端が鉤状になっているせいだったようだ。
「――抜けた」
「抜けた? 本当に?」
 ぎゅっと押さえられていたせいでまだ少しうずきが残る指先だが、確かに先ほどまで感じていた違和感やズクンと響く感覚はなくなっている。
「冷やした方がよいな」
「じゃあ水で冷やして来ます」
 立ち上がろうとした佐保だが、皇帝に制される。
「手拭を濡らして絞るくらいは私にも出来る。お前はそこで待っていろ」
 すぐに戻って来た皇帝は、もう一度佐保の指を観察して、黒い影が残っていないことを確認した。
「毒や汚れは入っていないと思うが、念のために消毒をする」
「はい、お願いします」
 佐保は頷いた。消毒と言えば傷や怪我に染みるものを思い浮かべるが、こちらで主に使われているのは酒精――アルコールの類だというのは生活する中で知った知識だ。だから皇帝も酒類を使って消毒すると思っていたのだが、その考えは甘かった。というよりも、認識がずれていた。
 佐保の手を取った皇帝は、躊躇うことなく指先を口に含んだのだ。
「へ、陛下っ!」
 驚いたのは言うまでもない。まさか皇帝がそんな行為をするなど、想像の範疇にはない。
「毒が入っていれば吸い出すのが定石だ。後から熱を出して寝込みたいのか?」
「それは厭です」
「それなら黙って座っていろ」
 黙って座っていろと言われても、自分の指が皇帝の口の中にあると思えば、妙に居心地が悪い。口の中の熱さだとか、吸いつくように動く舌だとか、初めての体験に佐保の頭の中はもう飽和状態だ。
「これでいい」
 ようやく口から出された指は、濡らした布で丁寧に拭われ、押さえられた。
「小さな傷だと侮るな。何が災いするかは誰もわからない。放置していたがために、命を落としたものも少なくはない。もう少し早く適切な処置をしておけば大事にならなかったと後から後悔しても遅い。佐保、私に後悔はさせないでくれ」
 見下ろす皇帝の真摯な瞳と表情に、佐保は恥ずかしがっていた自分を恥じた。皇帝は本当に心配をしていたのだ。ミオが医者を連れてくるまでに、出来るだけのことはしておきたいと。
「頼む。お前を失う恐怖は味わいたくない」
 頬に触れた掌。その手は、いつもの手袋を嵌めてはいない。
 佐保は頬を滑る手の上に、自分の手を重ねた。大きな温かい手だ。剣を握る手は少し硬く、ごつごつとした男の手。
「心配してくれて、ありがとうございます陛下」
 重ねた手をそのまま、逃がさないようそっと両手で包み込み、胸の前で抱き締めた。
「隠さないでください。この手は僕を助けてくれる手です」
 手。皇帝の右手。それは普段見慣れている左手とはまるで違っていた。大きさも手触りも左手と同じなのに、色が違う。皇帝の手は、濃淡を持つ暗緑色で覆われ、指の先から手の甲を通って袖の先までずっと続いていた。腕に絡みつくようなその色が、さらに奥まで続いているのは聞かずとも明白だ。
(何かの模様? 毒の皇帝って……これのせい?)
 暗闇の中に溶け込んでしまいそうなほど、深く暗い緑色。髪や目、肌に様々な色を持つ人々が住んでいるこの国で、たった一人しか持たない色。
(これを見せたくなかったんだ)
 だから手袋で隠していた。だが大丈夫。怖くなんてない。
「僕は、この手が優しいことを知っています」
 何度も触れようとして、でも触れられなくて降ろされたのを知っている。いつかは直接触れることが出来るだろうかと思っていたが、その機会は存外早く訪れた。
「僕は大丈夫」
 佐保は手を握ったまま、皇帝の顔をしっかりと見つめ、言葉の意味を正しく伝えるためにゆっくりと言った。
「僕はこの手が好き。手だけじゃなくて、陛下の声も顔もみんな好きですよ」
 灰色の瞳の中に走った小さな漣も、佐保が見逃すことはなかった。