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「追憶の残り香」松雪奈々(ill.雨澄ノカ)

あらすじ
 医者の修司は、高校時代に気まずいまま別れた親友・玲を忘れられずにいた。会えなくなってから、玲に感じていた気持ちが恋だったと気付いた修司は、ある日ゲイバーで玲を見かける。九年ぶりに会った玲は、好きな男を諦めるためにバーで相手を見繕おうとしていた。修司は、ノーマルだと思っていた玲が、自分以外の男に想いを寄せる事実に嫉妬心を抑えきれず、「誰でもいいなら、俺でもいいだろう」と無理矢理に玲を抱こうとするが――。

本文より抜粋

 二度と、名を呼ばれることはないと思っていた。
 懐かしい声に苦しい痛みが呼び覚まされる。しかし表面上はとり澄ました笑顔を崩さずに口を開いた。
「なんだ、わかってるじゃないか。旧友との久々の再会だというのに、喜んでくれないんだな」
 玲が気まずそうに視線をそらす。まるで蛙を睨む蛇になった気分だ。
「ええと……知り合いかい?」
 それまで口説いていた男が玲に話しかけた。男は玲の肩を抱いていたのだが、修司に気を呑まれたようにいつのまにか手を離している。
「ええ、そうです」
 玲が口を開く前に割って入った。
「高校時代の友人なんですよ。申しわけないが積もる話もあるので、こいつは引きとらせてください」
 言葉遣いは丁寧だが、声にも態度にも有無を言わせぬ迫力を滲ませると、男はこちらの意図を察したようで、それ以上の反論はしてこなかった。
「では、失礼」
 押し黙る相手の前で玲の腕をつかみ、踵を返す。
 うわべを取り繕うのは得意だ。
 そう、得意だったはずだ。それなのに、いまはつかんだ腕から動揺を悟られないようにするのが精一杯だった。
 大股で人の波をすり抜け、衝立の陰に来たところで立ちどまると、反動で玲の肩が腕にふれた。
「玲。なぜ、ここにいる」
 問いかける声は、波打つ感情を押し殺しきれずに低くなった。
「なぜって、その……」
「おまえ、ノンケだっただろう。それがどうしてゲイバーなんかにいるんだ」
 そう。玲は男になど興味はなかったはずだ。
 すくなくとも修司の知るかぎりでは。
 すると玲は顔をそむけて黙り込んでしまった。まるで、おまえなどとは話したくないと言わんばかりに。
 そんな彼の態度に、修司の胸に黒い靄が立ち込める。
「どんな男を好きになったんだ」
「……え?」
 唐突な問いかけに、気弱な瞳が不思議そうにむけられた。
「ここにいるってことは、こっちの道に目覚めたきっかけがあったんだろう。それともいま惚れてる相手でもいるのか」
 その問いに玲ははっと息を呑み、なんとも言えない表情を浮かべた。
 好きな男が、いる。
 そう顔に書いてあった。
「図星らしいな。どんな相手なんだ」
 確信した瞬間、妙な苛立ちが込みあげてきた。
 どうせだんまりを続けるつもりだろう。そう思っていたら、意外にも玲は口を開いた。
「……仕事関係の人。三つ年上の……」
「既婚者か?」
「違う、けど……」
 ノンケなのだろう、と思った。
「相手はおまえの気持ち、知ってるのか」
「いや……」
「まあ、言えるわけないか」
 昔のままの玲ならば、ノンケの男をふりむかせてやろうなどという気概はないだろう。
「バーに来たのは、そいつを諦めるためってところかな」
 男が好きだと自覚してもたいがいは成  就せず、出会い系のバーなどへ足を運ぶようになる。おそらく玲もそうなのではないかと推測すると、しばしの沈黙のあとで、そんな感じかな、という呟きが返ってきた。
 どんな男なのだろう。
 強烈に知りたくてたまらなくなる。
 ひと言かわすごとに気持ちがささくれ立ち、根掘り葉掘り訊きたくなる。
 そもそも、いつから男に目覚めたのか。
 これまでに、何人の男と経験したのか。
 過去、ノンケだったから避けられたと思っていた。だがゲイだったのならば、単に嫌がられただけだったのか。
 修司の脳裏に九年前の苦い記憶が過ぎる。
 訊きたいことが山のように溢れてきて、唇を噛み締めた。みっともなく質問攻めにするのはかろうじてこらえたが、そのぶん苛立ちは募っていった。
「外に出るか」
 うつむく玲をしばし見つめたのち、細い腕をつかみ直すと、引っ張って出口へ連れていった。
 店から続く階段をのぼりきり、人通りのある路上へ出ても、修司は歩く速度を緩めない。
 自分でも、なにをやっているのかと思う。
 玲に会ったら、もっとほかに言うべきこともあったはずなのに、いま頭を占めるのはたったひとつだ。
 ──玲に好きな男がいる。
 それは修司の理性を奪うにじゅうぶんな事実だった。