| 第8回 妹尾ゆふ子 「非在の風景」 自分はなぜ、ファンタジーが好きなのか。 好き嫌いは理性ではどうしようもない現象であるから、なぜ、と理屈をつけてもしかたがない気もするが、それでも考えてしまう。 なぜ、ファンタジーなのか。 奇蹟を真正面から描き得る――それが、ファンタジーというジャンルの特徴だと思う。奇蹟という言葉が強過ぎるなら、不思議と置き換えてもかまわない。日常を覆す力。あり得ざる力こそが、ファンタジーの根幹であろう。 そういうものを書いていながら、実のところ、わたしはあまり不思議なものを信じていない。それは、わたしの日常に奇蹟が入り込む余地がほとんどないからだ。 若い頃は、それなりに「特殊な力を持つ」ことに憧れもしたが、わたしにはなにも特別なものは見えない。どうやら超現実的なものを感知する能力がないようなのだ。 特殊な能力のある人は、それが有効な世界で生きている。わたしにはそんな力はないので、自分の世界、すなわち醒めた現実を生きるしかない。不思議なことはなにも起きないし、必要としない。それが、わたしの生きる現実であるらしい。 だからファンタジーの魅力が薄れるということはなくて、今に至るまでずっと好きだし、自分で書きつづけてもいる。日常と非日常をきっちりと分けてしまったからこそ、逆に魅力が増したといってもよい。 不思議などないと諦めているからこそ、本を読んでいるあいだは信じさせてほしいのだ。奇蹟を、不思議を、魔法を。わたしが今の自分の人生には無関係だと切り捨てている、なにかを。 ファンタジーに限らず、小説を読む人は、現実の生活だけでは得られないなにかを求めているのだと思う。 何十年か生きてみると、人生というのは実に面倒くさいことが多くて、もうやってられないよ、しかしやっていくしかないよ、という局面に追い込まれることもしばしばだ。そういうときでも、本を読んでいるあいだだけは、現実とは違う世界に逃げこめる。逃げるという言葉はイメージがよくないだろうが、やる気を使い果たしてしまう前に補給するのは、賢明な対処法といえるだろう。栄養分が必要なのは身体だけではない。精神も、それを必要とする。つまり、娯楽を。 数ある娯楽の中で、とくに読書、それもファンタジーを選んでしまうのはなぜだろう、とここでまた出発点に戻る。 まだ現実になにか不思議なことが起きるかもと期待していた若い頃だって、わたしはファンタジーが好きだった。子どもの頃から一貫して、不思議を扱った物語を愛していた。 児童文学にはファンタジーが多いから、子どもがファンタジーを読んでも不思議はないだろうが、大人になるに従ってそれを「卒業」し、もっと現実に近い設定の小説を読むようになっていくのが、一般的な傾向だろう。 すると、大人がファンタジーを読むのは、子どものままでいるためだろうか。幼かった自分に立ち戻るため、なのだろうか。 そうなのかもしれない。少なくとも、不思議なものを信じる心が自分の中によみがえるという意味では、間違いなく。 なんでも信じられた子ども時代と比較すると、ワン・ステップ遠くからの出発になるのは確実だ。説得力のある描写がどうのと自分がうるさい読者になってしまった今、ネバーランドはあまりに遠い。けれど、遠いからこそその道のりを埋めていくのが楽しい。行き着く先に待っている世界が慕わしくもある。 本の頁を通してわたしがファンタジーに求めているのは、奇蹟の力それ自体ではない……ような気がする。派手に空間を彩る魔法の光でも、英雄たちの剣の歌でもない。いや、それも含まれるのかもしれないが、わたしが求めているのは風景だ、という気がする。 ここから先は幻想国である、という国境をわたしは探している。ファンタジーについて考えるとき、扉の向こう、あるいは窓の向こうといった連想がはたらきがちなのも、そのせいだろう。こちら側が現実、あちら側が非現実。禁断の地であるからこその魅力、足を踏み入れることの危険を示唆する空気。無言の拒絶と無条件の誘惑が両立する、魔法の風景。 向こう側へ連れて行ってくれる物語――それこそが奇蹟なのかもしれない。 |
||
| (C)Copyright 2008 GENTOSHA COMICS INC. All rights reserved. 無断転載を禁じます。 |