コラム 

第4回
 三村美衣
「日常に支えられた幻想」


 三村美衣という筆名は、トーベ・ヤンソンの《ムーミン》からつけたものだ。そのままなので、本を読んだりアニメを観た人には明らかだと思っていたが、ある日、友人から「ペンネームはサムライミからつけたんですよね」と言われて仰天した。なんと、この名前の中にはそんなものが隠れていたのか。以来、面白いのでときどき使わせてもらっているが、映像センスについていけず、「死霊のはらわた」もちゃんと見通せていない。
 しかし実は《ムーミン》も、はじめて読んだときにはどこが面白いのかわからず、なげてしまった作品のひとつだった。ところがその後、文庫に収録されたのを機に『楽しいムーミン一家』を再読してみたら、これが記憶に反してむちゃくちゃいいのだ。幼い頃には突飛なだけに見えた登場人物(人じゃないけど)も、カリカチュアライズされたキャラクター性としてくっきり見え、なにより物語の筋書きではない部分の楽しさがわかるようになったせいだろう。
 中でも最終巻の『ムーミン谷の十一月』が好きで、その後、幾度も繰り返し再読している。
 舞台は冬を間近に控えた11月のムーミン谷。ムーミン一家を訪ねて、スナフキン、ミムラやヘムレンさんなどがムーミン館にやってくる。ところが温かく迎えてくれるはずのムーミン一家は留守なため、彼らは一家の帰りを待つために、主不在のムーミン館で暮らし始めるのだが……。ムーミン一家とミィが登場しないというこの画期的に地味な最終巻。いるべき人々の不在によって、いつもは余裕しゃくしゃく、勝手気ままなはずの人々に焦燥感が募り、共同生活は不協和音を奏ではじめる。事件らしい事件はなにひとつ起きないのに、緊張感張り詰めるドラマチックな一冊だ。
 同じように幼い頃はさして感心しなかったのに、後年、がらっと評価が変わった作品がいくつかある。ルーシー・M・ボストンの《グリーン・ノウ物語》、アストリット・リンドグレーン《やかまし村》シリーズなどがそう。いずれも筋書きよりも、こまごまとした日々の描写に魂が宿っているタイプの作品だ。思うに、情緒とか、人生の機微とか、生活実感といったものに無縁だった頃には、その楽しさがわからなかったのだろう。
《グリーン・ノウ物語》は古いお城のようなお屋敷と庭を舞台にしたファンタジーだ。昨春から新装改訂版の刊行がはじまりこのほど全六巻が完結した。通巻を原著の刊行順通りに改めて翻訳にも手を加えた完訳版で、児童書らしからぬ端正な装丁も、この際だから全巻手元に置こうという大人には有り難い。
 何度も再読しているのですっかり覚えてしまっているが、それでもなお、主人公のトーリー少年がクリスマス休暇をすごすために母方の曾祖母の家グリーン・ノウを訪ねる冒頭のシーンにはわくわくさせられる。
 折しもグリーン・ノウの周辺は洪水に見舞われて水浸しで、トーリーは水没した道をボートに乗って屋敷に向かう。すっかり日も暮れ、川なのか道なのかも区別がつかない闇の世界を進むトーリーの前に、忽然と、あかりを灯した石造りの古い城のような屋敷が現れるのだ。この屋敷には、かつて屋敷で暮らしていた子どもたちの幽霊がいて、トーリーがそのまぼろしの子どもたちと友だちになっていく様子が描かれる。幽霊が住む家という幻想を支えているのは、古い調度や玩具や、日々、変化するグリーン・ノウの情景など、物や生活の細やかな描写だ。
 しかしこれが素晴らしいなどといえるのは今だからこそ。最初に読んだときには、川の水があふれて一面が水浸しになってしまうように、時間に方向性や流れというものがなくなるこの描写に惑わされ、何を読んでいるのかわからなくなってしまい途方に暮れたものだ。描写そのものを楽しめるようになってから、シリーズ全巻を通して読んで、一度で懲りる性格じゃなくてよかったとつくづく思った。
 このグリーン・ノウのスペクタクル版が《ハリー・ポッター》の魔法学校だと、シリーズ開始当初はそう思っていたが、終わってみればずいぶん遠いところに行ってしまったという印象。ホグワーツやロンの家での生活描写が延々とつづくような、退屈な《ハリー・ポッター》を読んでみたかったと思うのだ。ギリスと日本では風景が違うが、日常を通して過去とつながる、優しくてもの悲しいノスタルジックな幻想風景という意味では、むしろ梨木香歩『家守綺譚』(新潮文庫)や、緑川ゆき『夏目友人帳』(白泉社)こそがボストンの正嫡と言えるかもしれない。

次回は、菅 浩江先生です。

 
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