|
|
「母上の匂いを、と、寄越されたけれど、私は何も、母上のことは覚えていないのに」
椿が、縁の縁で苦笑いをした。
母君の部屋だったと、ここを寝所に整えてくれたのは良いが、懐かしいのは夫妻を始め年上の親族だけで、生まれてすぐに母を失った椿に感慨を持てと言う方が難しいのかも知れない。
けれど、この部屋には愛が溢れていて、本来椿が受けるべきだったものを知らせるには、良いことだったのだと十左は思う。
椿は自分の不遇すら知らない。
だから、本来これ以上に愛され、敬われて過ごして然るべきだったのだと、少しでも彼に知らせたかった。
そして、それが確かに一番の目的で訪れたのであったが。
「俺も、この部屋に来て良かったと思います」
「…十左が?」
奇妙に問いかけられるのに、はい、と十左は頷いた。
「千代殿の、お部屋に俺は泊まりますから」
香織の部屋と続きのようにして、傍仕えだった千代は休んでいたと言い、当然、千代の部屋に十左の床は用意された。
「覚悟を新たにします」
笑ってそう言うと、椿は千代の厳しさを思い出してか、少し困った顔をした。
この、花のような菓子のような家を出て、敷島に嫁ぎ、香織の最期を看取って、嵐の半生を過ごし、椿の幸せを祈りながら香織の元に行った千代だ。
人はそれを波乱と呼ぶか、不幸と呼ぶかわからないが、十左にはそれが羨ましくて仕方がなかった。
「きっと今夜は金縛りだ、十左」
面白くなさそうに言う、椿に、思わず苦笑いが浮かんだ。
千代が生きていたら、どれほどの憎しみを買ったのだろう。あの部屋に寝れば呪い殺されても仕方がないような自分だ。
「だから――――」
幼い頃のように、椿がそっと手に触れてくる。
白く光る螺鈿のような傷跡に、着物越し、そっと唇を押し当て、静かに目を閉じる。
「まだもう少し、ここにいて」
そう強請る椿がかわいらしく、情に上擦るまま、思わず頬を引き寄せる。間近で伏せられる長い睫毛、細く通った鼻筋を見ながら。
あれにも似ていると、椿が言う、丸く光る月に見つめられながら。
音のない口づけを、愛らしい唇と深く交わした。
|
|