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夜の庭に、虫が鳴いた。
椿は薄い蒼の浴衣姿で、縁に座っていて、十左はその風上の奥に、少し早めの蚊遣りの線香に火を灯した。
「小さい頃を思い出すな」
潜めた声で、椿が言うのに、そうですね、と、十左は笑った。
敷島の屋敷で、時々こうして、椿は夜の庭を見ていた。
昼間、なかなか近づけない自分も、このときばかり
は縁に近づいて、椿に茅(かや)籠に入れた月鈴子(すずむし)を差し入れたものだ。
「皆が言うはずだ」
そう言う椿の手には、一枚の写真立てが持たれていた。
椅子に座った少女と、その後ろに立つ少女と。
「俺でさえ、椿さまかと一瞬」
笑って、隣に座れと縁に指で触れられ、十左は一礼をしてから、椿の隣の縁に腰を下ろした。
ここは、香織の部屋だったらしい。確かに部屋は有り余るのだろうが、いつ帰ってきても良いようにと、嫁入り後も、亡くなったあとも、当時のそのままに残してある部屋なのだと、女中は案内してくれた。
思わず苦笑いが浮かぶような、少女じみた部屋だった。愛らしい几帳に、花の西陣の脇息、碧い眼の人形と、異国渡りの品の数々。お手玉、ぽっぴん、市松、刺繍、レエス、溢れんばかりに籠に収められた色取り取りのリボン。どんな暮らしをしていたか、眼に映るほどだ。
その中に、二枚の写真を見つけた。
一枚は、家族の写真のようで、大勢映った古い写真の一番幼い少女が香織だと思われた。
もう一枚は、もう随分大きくなってからの一枚で、頭に蝶のような大きなリボンを乗せ、ふわふわの長い垂れ髪、振り袖の袴姿で、猫足の細い椅子に腰掛ける様はまるで陶器人形のそれのようだった。その後ろに立つ少女は、手前の娘より生い長けて、潔い切り揃えた髪で姿勢の良い肩を包んで、頭頂で、細いリボンできりりと髪を結い上げ、いかにも潔癖で清々しい様子が快く理知的にも見えた。
誰かと問うまでもなく、手前は女学校に入学する前の香織で、その後ろは若かりし頃の千代である。
椿は母親似だと誰もが言ったが、それにしても、と苦笑いするほど、髪を伸ばせば、香織そのものの椿の容貌だった。
敷島の家でも香織の写真は見たことがある。しかし、この写真は、年頃が椿と近いせいか、うり二つと言っていいほど、椿は香織によく似ていた。
千代は、確かに年老いても顔の造りが整っていて、若かりし頃は美人だったのであろうと想像させてはいたが、これほどだとは思わなかった。
美人画の蒐集家には、未だこの写真を高値で譲ってくれと言ってくるものがいるとのことだ。
これほどの愛らしさに関わらず、繊弱であり、ほとんど人目に掛かることもなく、垣間見た者や、写真屋の、夢見心地に惜しむ声に一時人気は迸るほどだったそうだったが、当然門外不出ともされ、余計それは幻とされたというのが、女中の言うところだった。
余りの熱意に負け、すでに故人である香織の写真を、見せるだけならと許した男は、家屋敷を売り払い伯爵の前に札束を積み上げた、と言う話も聞いた。
もちろん、これがここにあるからには、男の願いは叶わなかったのだろう。
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