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何の心配も必要とせずにある椿。
親族に囲まれ、安心して過ごすそれを見れば、明日、一人で船に乗ることになっても、到底恨む気持ちにはなれなかった。
「…」
星を見上げ、椿の幸せを、目を閉じて祈る。
初めて本当の安堵をした。初めて償いの一端が微かにでも報われた気がした。
そこに。不意に。
「十左、と言ったか」
現われたのは。
「――――御前!」
十左は慌てて、背を凭せていた壁から離れ、姿勢を正し、深く頭を下げた。綾倉伯爵は、ゆったりとしたくつろいだ袴姿で、あろう事か、屋敷伝いに広い犬走を歩いてきた様子で。
磨かれた上品な樫の杖を引きながら、ゆっくり側まで歩いてきて、十左に並ぶようにして立ち止まった。そして、良い星空じゃな、海も凪いでおろうと、呟いてから。
「椿はどうか。苦労を掛けておらぬか」
自分を労る言葉を、祖父らしい口調で十左に訊ねた。
「はい。椿さまにおかれましては、幾分、お身体が御丈夫とは言い難くあれど、まずはゆるゆるとお過ごし遊ばされて、無体をお申しつけ遊ばされることもございません」
悪戯好きで我が儘だと、言い上げるのは奉公人の名折れであると、一番強調せねばならない部分を十左は呑み込んだ。
それに伯爵は、そうか、苦労を掛けるな、と、軽く息を吐いてから、少し濁った鋭い視線を軽く伏せた。
「あれは可哀相な目に遭わせた。我らが一生の罪だ」
椿の生を知らなかったこと。生まれたのだと思いもせずに探しもしなかったこと。
罪と言うには余りに無実なその罪を、彼らは負うのだという。
「椿さまは、お恨みではありません」
十左は懸命に、椿も言ったであろう言葉を重ねた。
椿は恨んでいない。
誰のことも、高男達のことすら。自分のことも、余りに過酷な運命すらも。
告げると、老人は、そうか、と呟いて、つかみ所のない笑みを静かに浮かべた。
「明日の朝にも、椿は帰りたがっておる」
そんなに居心地が悪いか、と、問われるのに、滅相もございません、と、十左は恐縮して答えた。
予想はしないわけではなかった。けれど、裏切ってほしい予想でもあった。
それが、椿の決心であることが目眩がしそうなほど、嬉しかった。鳥肌が立ちそうに畏れ多くも。
「おぬしにも苦労を掛けるが、椿をよくみてやってくれ」
そんな言葉に、十左は勿体のうございます、と、深々と頭を下げて答えた。
伯爵は、それを無言でしばらく眺め見てから。
「……おぬしを見ると、千代を思い出す」
独り言のようなそれに、どう答えていいか解らず、十左は黙ってそれを聞いた。似ているというなら、千代直々に、奉公人の何たるかを叩き込まれたのだ。似て当然だろうと思うところに。
「千代は、わしより、奥より、香織一筋で、一生、身を尽くしてよう、仕えてくれた」
椿は、あれほど自分に尽くした千代に対して、千代は自分のものではなく、母のものであったと言った。椿にしてそう言わしめるほど、千代は香織一人を主と定め、そして、そうして生きられるものなら、羨ましく、今後何があっても自分もそれを見習いたいと、十左は思う。
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