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「お聞き下さい、椿さま」
「触るな」
「お許しください」
静かに、けれど椿の機嫌には従わず、十左は椿の細い手首を取って、ゆっくりと上向かせて、裏切られたと腹を立てる不機嫌に涙を溜めた目を覗き込んだ。
「綾倉の御前(ごぜん)が仰るには、香織様が椿さまをご出産の直後、疱瘡による御目煩いのため、夫人の御生家・賀茂の齋宮の御家に祈願を込めて、内密にお預けになったと、お話しを整えられるそうです」
椿が頑として耳を傾けない代わりに、伯爵は千代の代わりと十左を見立て、椿の機嫌を伺いながらそう促せと、彼の計画を打ち明けたのだ。
生まれてすぐに目を患ったため、齋宮家でもあった伯爵夫人の実家に預けるのは回復祈願として何よりも相応しいことに思えたし、香織が没した直後に養子縁組をしたことにしておけば、椿の身の上には敷島家没落の辱めも、御家の騒動も、何一つ創は残らない。
そうすれば、椿の出生が公にならなかった事情も不自然ではなくなる。
香織が没してすでに十七年。
何しろ空恐ろしいくらいに、椿の生命は誰にも知られていないのだ。
「だから綾倉椿になることは承諾したはずだ。敷島に戻ろうにも、家などどこにもない」
椿はそう言うが、そもそも椿は椿であって、敷島椿ですらなかったのだ。名字が変わることなど椿に取って本棚の本が入れ替わる程度の些末事で、位の違いなど毛頭考えもせず、お気に入りのソファーの位置が変わる方がどれだけ椿を動揺させるか解らなかった。
そんな椿は、幸せなのか、哀れなのか。
「家は……大切です。椿さま」
苦く、十左は諭した。
どんな家でも、形だけでも。
明治の御維新前に、十左の生まれた家が仕えていた城は取りつぶされ、十左の父は牢人となった。
維新を迎え、牢人が平民になるしかなくなっても、父親は御家の再興を信じ、幼い自分たちに髷を結わせ、剣を学ばせた。
父が病に倒れ、母が後を追うように没した。次男は乞われて西の商家に婿に入り、開化の景気に乗って家計を支えようとした長男と、武士であることを誇りにした病弱な三男は仲が悪く、長男は東京に就職のために下向し、三男は辞世の句を残し、首を縊(くく)った。
家は借家で首吊り人を出したせいで、葬儀もできず、十左はその日のうちに無一文で、家を追い出された。
帰る家もなく、名乗る名もない。
椿にもそれは同じ事だったが、それが叶うというなら、そうするべきだと十左は思う。
「私の家はここだ。それ以外は要らぬ」
「ここも貴方の持ち物です」
いつでも帰ってきてください。
懇願するように、そう、十左が囁くのに。
「!」
一度強く爪を立て、椿はその手を振り払った。
「……邪魔で面倒なら、手早くそう言え。お前が出て行けばいい」
必要ならば綾倉へは私が手紙を書く。と、早口で言って、椿は再び背を向けた。
「椿さま!」
「……もともとお前は、高男兄さんの嫌がらせで遣られた身だ。もう、高男兄さんは此所とは関係がない」
「椿さまのためです」
「いい加減にしろ」
全く聞く耳を持たないどころか、勝手に自分を遠ざけようとする椿に、急に腹が立って。
「椿さまはご存じないだけです。ここが一番安全な場所ではありません。嵐が来れば絶対安全とは言えず、俺がもし、何らかの事故で死んでしまったらどうなさるおつもりですか。お一人で灯台に上がって錘を巻き上げますか? 今から、緊急の信号の発信の仕方をお稽古なさいますか? 何の御心配もなく豊かに暮らせることが何故、お気に召さないのですか!」
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