―その1―
(1〜9)
6/8Up!!


―その2―
(10〜19)
6/15Up!!


―その3―
(20〜32)
6/22Up!!



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 良く晴れた日のことだった。
 春も名残の空は低く曖昧なりとも青の濃い快晴で、波は凪ぎ、普段、少々潮が引いても飛沫くほどに波の立つ桟橋は、昼寝が出来そうにゆらゆらと揺れるばかりで、穏やかだった。
 この人が来るときは、いつも凪ぐと、不思議に思いながら、十左はそれを見送るべく、狭い岩場へと従い出る。
 傍仕えを数人と、執事、土産物や不必要と思われるがらくたを持ち戻りする下男を連れて。
「くれぐれも椿を大事に。沖からは毎日二度、船で見にやらせておる。何かがあったら、信号は、覚えたの?」
「畏れ入ります」
 杖で岩盤を突き刺しそうな威厳を以て言いつけられる言葉に、深く十左は頭を下げた。
 綾倉元伯爵。現在は、貿易商をしている長男が伯爵家を継ぎ、この老人は隠居の身であるが華族専用の十五銀行の一端を担う、隠居と言うには甚だそぐわぬ闊達な老人であった。
 中肉で中背で恰幅は良く、襟足で切りそろえた総白髪の髪を後ろに撫で付けている。洋装の日もあるが、袴の方が楽なのだと言って、ここを訪れる日はたいてい糊の利いた袴姿だった。
 顔立ちは彫りが深く髪は銀に近く、色白な上に少々赤ら顔でもあったから、外人のように見えなくもない。振る舞いは穏やかだが豪宕で気性が荒いのはその端々に見え、椿はどちらかと言えば伯爵夫人に似ているが、その、凛と涼やかな目元だけは伯爵に似ていると十左は思っている。
 伯爵は、自ら溺愛していたと言って憚らない彼らの末娘、椿の母親である香織が、椿を生んだことをつい最近まで知ることなく、娘を失った悲しみだけに暮れて過ごしていたらしい。
 十七年の月日を経て、一人の年老いた女中の忠節の命と引き替えのようにして、ようやく彼らに出生が知られた椿を、彼らは酷く喜び、この塔からすぐにでも連れ去ろうとした。しかし、餓死寸前までに飢えて、未だ病床にいる椿の回復は一夕一朝でなるものではなく、それを口実に、様々なことの結論を先延ばしにしている。
 伯爵は、椿に篤く心を注いでくれていた。
 自分に緊急の光りの放ち方を教え、日に二度、沖から監視に来る綾倉の巡視船がそれを確認する。
 今は随分落ち着いたが、少し前までは、いつ様態が急変するかも知れない椿を抱え、自分も寄越された医師も、いつでも迎えが来る心強さは、今まで味わったことのない安堵と有難さだった。
 もう一度、深々と、頭を下げて老人を見送る十左に、不意に。
「……おぬしも来て構わぬのだぞ」
 伯爵は半身で振り返って、そう言った。
「おぬしの働きぶりは、見事である。椿にも言うておるが、椿はもとより、おぬしも、気が向かばいつでも屋敷に来るがよい」
 椿に着けるには勿体なくもある、と、今はまだ、それが心強そうに彼が言うのに。
「……畏れ多、ございます、御前」
 誇らしく、けれどどこかそら恐ろしく、十左は頭を静かに下げた。
 伯爵は、それに、遠慮はするな、と、言い置いて、船に乗り込んでいった。
 彼が去るのを待つようにして白く翻り始めた波を眺めながら。
「申し訳ありません」
 十左は、眉根を寄せ、心から伯爵に詫びる。


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